中尾コレクションをめぐって

所長対談:中尾コレクションをめぐって

この対談は、当センターの広報誌『アウリオン』第2号(1994.9)の巻頭特集として掲載されたもの(一部修正)です。
(文中の総合情報センターは現在の学術情報センターです。)


足と目のフィールド科学者

金子:
 このたび総合情報センターに、農学部名誉教授・中尾佐助先生のいろいろな蔵書類が、女婿に当たる総合科学部の平木康平教授のご援助もあり、中尾コレクションとして寄贈されることになりました。図書・雑誌・アルバム・スライド等、大変な数でして、まだ整理が完了している段階ではないのですが、できれば一般にも展示できるようにしたいと考えています。今回はかねてから中尾先生とご昵懇の間柄であられた保田先生に、中尾コレクションをめぐって、中尾先生の思い出やコレクションの特色についてお聞かせ願いたいと思っているのですが、あれだけの蔵書類があるということを事前にご存じだったのですか。

保田:
 私は学生時代に、木原均先生のお弟子であった中尾先生から遺伝学を習いました。そして卒業するなり助手になりましたので、それ以来お辞めになるまでのおつきあいでした。先生は、いわゆるフィールド・サイエンティストだと巷で言われているように、歩き回って自分の足で稼いだものから論理を構築していくという、とてつもなく奥行きのある発想をなさいました。先生の一番の特徴は、「写真を撮る時は足と目で撮れ。目と手だけで撮るのではないんだ。歩き回って少しでも高い所に登ればいろんなものが見られる、いろんな写真が撮れる。」とおっしゃっていたことです。ですから、写真にしても何にしても、システマティックにできた通り一遍のものではなくて、自分の足と目で稼いだ先生独特のものが密かにコレクションされているのではないかと思っていました。

金子:
 中尾先生のご経歴を拝見していますと、大学1年の夏休みにすでに興安嶺に行ったり、北朝鮮の狼林山とか樺太とか、あちこちに出かけておられるのですね。

保田:
 先生は京大の旅行部というようなものに入っておられたと聞きます。ですから、もともとは民俗学をしようとか植物学をしようとかいうより、むしろ歩きまわろう会のようなところから出発されたのではないでしょうか。

金子:
 そうですね。ですから、狭い意味での植物への関心だけではなくて、非常に広い、文化全体に対するアプローチが当初からあったのではないかと思われます。今回のコレクションを見ても様々な種類がありますし、いろいろと楽しみながらやっておられたようですね。保田先生は、ご覧になったなかで何が一番おもしろいと思われましたか。

保田:
 農業は生きている文化財であって、祖先から受け継ぎ、育て、子孫に手渡してゆく、その一連のプロセス全部が農業なんだというのが先生のお考えです。すなわち、いま現にやっていることのなかにきっと農業の祖先的なものが残っているだろうし、それをモディファイして今後どうしようというアイデアがそこにはあるということです。そういった、現地で実際に行われている農業のなかから過去・未来を見通そうという先生の姿勢が、スライドのなかに集約されているように見えました。ですから、先生のスライドを整理するお手伝いをさせていただいたのですが、「素晴らしいコレクションが府立大学に来たな。四散せずに我が大学に来てよかったな。」と思いました。それはなぜかと言いますと、先生のアイデアというのは府立大学で具体化されていったんじゃないかと思えるからです。

金子:
 中尾先生というと照葉樹林文化というのが著名ですが、あの照葉樹林文化論を着想されたのは、今西錦司先生の還暦記念論文集においてが最初だったと伺っているのですが。

保田:
 そうでしょう。あの頃からだんだん充実していきまして、1992年に佐々木高明先生と一緒に出された出版物あたりで、お考えがある程度完結されたのではないかと思います。その間には、照葉樹林文化前期複合のように、照葉樹林文化をいくつにも段階的に分けるということをされました。分けてはまとめ、まとめては分け、こういった試行錯誤のなかで先生のお考えが最後にまとまっていったのではないでしょうか。

金子:
 そうしますと、照葉樹林文化論というのは、初めからひとつの塊として出てきたのではなくて、それ自体も長い進化の歴史を持っているのですね。そして、その過程が中尾コレクションを調べるとわかってくるという期待もありますね。ところで、照葉樹林の照る葉というのは日本や東アジア特有のものなのですか。

保田:
 そうですね。夏に雨量の多い暖温帯では、われわれ人間が老化すると血管に溜まるコレステロールの仲間のチトステロールという物質やロウ質を葉に持って、「てかっ」と粉を吹いたような常緑で厚ぼったい葉をした植物の森林が発達します。ヒマラヤから中国を経て日本に延びているのが、先生がお好きなカシだとかシイの仲間を中心とした照葉樹林なのです。一方、冬に雨量が多い地域、地中海沿岸には、オリーブなど硬い葉の硬葉樹林が広がっています。

金子:
 保田先生が中尾先生に同行されたのはいつ頃で、どの辺を回られたのですか。

保田:
 ヒマラヤの照葉樹林は西から東へと延びていますので、先生は西の方から東を目指して、アンナプルナあたりまでずっと歩いておられました。そして1962年にダージリンから東ネパールに入っていかれる時、私もお供をしました。先生はご自分の照葉樹林文化論を完結するために、シッキム・アッサム・ブータン・四川・雲南へと続く流れの中で、まずヒマラヤというものを捉え、西・中・東と踏破なさりたかったのではないでしょうか。

金子:
 その時、保田先生は昆虫を調べるという目的で行かれたのですか。照葉樹林文化と昆虫はどういう関係があるのでしょうか。

保田:
 関係といえば蜜蜂くらいなものです。でも、中尾先生は暢気そうに見られるようですけれども、案外先を見ておられます。遠征から帰ってきても、民俗学的な見聞録というのはなかなか学術論文にはなりません。何が一番先にサイエンティフィックなペーパーになるかと言えば、植物学や昆虫学や動物学などで、新種がいくら採れたなどとすぐに書けるわけです。そういうことで、「東ネパールへは昆虫学者は誰も入っていないのだから、あいつを連れていけば1つや2つは論文を稼げるだろう。」と読んでおられたのだと思います。実際に新種についての論文を書きましたので、連れて行っていただいた借りは返せただろうと思っています。

金子:
 先ほどのお話に「足と目で写真を撮れ」というのがありましたが、中尾先生はそういうところを現地調査する時に、ラバなどの乗り物はあまりお使いにならないのですか。

保田:
 それまで先生は馬やいろいろな乗り物を利用されていたでしょうけれども、私達が行った東ネパールではそういう乗り物は発達していませんでした。そして、「保田君、東ネパールというのは『菊かぼちゃ』の周りを歩くみたいだね。」とおっしゃったのですが、その表現が本当にユニークだと思いました。谷へドーンと降りたと思えば、今度は2000mぐらいの高度差を上っていき、またストーンと谷まで降りて、また登っていくわけです。すると、すぐそこに前日キャンプを張ったところが見えたりすることがあります。そうしながらも先生は本当にマイペースで、ご自分の好きなシャクナゲを見ては楽しみ、植物を採ってはポーターに担がせ、反対側の斜面に歩いていっては写真を撮られます。それも先生が撮られるのは必ずルートから外れたところなので、私達よりジグザグに歩かれる分、その距離もかなりのものになったと思います。その成果がまさに足と目で稼がれたスライドとして残っているわけです。



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照葉樹林と食文化あれこれ

金子:
 本当にスライドの整理などもきちんとなさっており、あれも大変でしたでしょうね。

保田:
 今まで知らなかった先生の側面を見せられた気がします。遠征などでもずかずかと人の家に上がっていって豪快にそこの人と話されたりしていた大胆さから、細やかな神経なんてお持ちではないのではないかと思っていたので、あそこまで細かくデータをとり、それに伴った写真を整理されていたとは思いもよりませんでした。

金子:
 照葉樹林文化を構成する文化的な要素はいろいろありますが、中尾先生は「最初はシソが目についた」と書いておられます。シソというのはそんなに珍しいものなのですか。

保田:
 香味料としてのシソの分布が照葉樹林帯のなかでのジャポニカ型イネの分布と重なるというのが先生の持論です。先生の照葉樹林文化論というのは、クズやワラビやテンナンショウ(天南星=漢方薬に使う。こんにゃく玉のようなもの)など、根を掘って利用する、いわゆる根菜の文化論につながっています。根を利用しようとすると、えぐみなど植物が持つアルカロイドで人間の食に合わないものがあり、それを晒したり熱を加えたり、いろいろな方法であく抜きをしながら食べる、そういうクッキングのなかで香味料としてのシソがあり、それとコメの分布が一致するとアピールされていました。

金子:
 そういった食文化というのは、その土地土地に合った文化として発展するのですから、そのスタイルが共通しているのも非常におもしろいし、日本人のルーツを考える上でもとても重要な問題であると考えられますね。

保田:
 先生はある種の植物だけという狭い視野ではなく、また、ただ単に植物そのものをコレクションされるだけというのではありませんでした。その植物が野生種なのか、栽培種なのか、その中間種であるのかということを考えるのと同時に、その植物がどのようにそこに住んでいる人に利用されているのか、その過程で人間がどのような手の加え方をしているのか、できたものをどのように食べているのか、といったように幅の広いものの見方をしながら歩いておられたのです。

金子:
 大阪府立大学の農学部にいらっしゃって、そういうことができる環境が用意されていたということですか。それともご自分でお作りになったのですか。

保田:
 やはりそれは先生の天性だと思います。また、大阪府立大学という大学のカラーにもあると思います。我が大学には非常に自由な気風があって、ある人ひとりだけがいい思いをするのを足を引っ張るというようなことはなく、皆さんが協力的に、そしておおらかに、先生が自由にフィールドで活躍されるのを見ていました。

金子:
 中尾先生のお仕事は、確かに農学という非常に幅の広い、多面的な要素を持つ分野を踏まえたものだということはよくわかるのですが、同時にそれは日本の文化の基層を考えるに際しても、深い関わりを持ってくるのではないかと思います。近年、総合科学部の平木先生のグループが道教の研究をされているのですが、道教というのは中国南部の基層文化と非常に関係があって、伝統的にその影響がかなり日本に入ってきています。たとえば着物の着方で男性の左前(北部は逆)は明らかにその影響であるとよく聞きますけれども、そういう話と照葉樹林文化の分布帯はうまく重なってきます。このように考えると中尾先生のお仕事は非常に広がりを持っているという感じがします。保田先生はどのようにお考えになりますか。

保田:
 私自身はそのあたりは非常に弱いところなのでコメントできないのですが、先生と一緒に歩いて教えられたところでは、先生の照葉樹林帯とうまく合っていると身を以て感じましたのは酒・味噌・醤油などの「醸し」ということについてでした。その酒にしても、先生流に言えば宗教とつながっているのです。宗教的なお祭がある時は酒もあるのだと、必ず民家に飛び込んでいってご自分で試されるのを一緒に経験しています。金子先生がおっしゃったようなことは、言葉としては聞いていませんが、中尾先生の頭の中にはあっただろうと思います。

金子:
 いま酒の話が出ましたが、照葉樹林文化帯では酒はしきりに飲まれるのですか。飲まない民族というのは特にないのですか。

保田:
 ないと思います。照葉樹林というのは鬱蒼として人間が住みにくく、焼畑などの方法で開いていくなかで、水の便が良いところに水田ができ、平地がどんどん増えていきました。独特の文化を持った少数民族は、どんどん山手の方に追い遣られましたが、いろいろな手法で酒のようなものを醸し飲んでいると思います。そしてネパール山地ではチャン(シコクビエに餅麹をまぜて土間に盛り、上から濡れむしろ等をかぶせて自然発酵させる。)であったり、ブータンでもチャンやアラ(チャンを蒸留したもの)であったり、必ず自分たちのよい酒を持っているのだと先生はおっしゃっていました。

金子:
 それからもうひとつ、モチが特色だとよくおっしゃっているのですが、モチというのは非常に限られた地域のものなのですか。

保田:
 モチそのものは別として、モチ米は非常に広い地域で食されています。タイなどでは竹筒に糯米を入れて蒸すということをしますが、それと同じようなことが日本にもあると先生は指摘されています。また、モチをつくのに使う杵と臼はアフリカから日本にまで分布していますが、その取り合わせ・形・使い方は地域によって違うということです。

金子:
 照葉樹林文化のもうひとつの特色は、かかあ天下、すなわち女性の地位が比較的高いことだと言われています。保田先生が行かれた時にもそういうご体験がありましたか。

保田:
 チベットの人は、かかあ天下といえば、かかあ天下なのでしょうね。

金子:
 たとえば、先ほどのモチづくりとか、食文化の担い手は女性ですか。

保田:
 女性でしたね。男達は家畜の世話をしたり、自分のテリトリーのなかの整理をしたり、非常に基本的なことをしていたように思います。

金子:
 中尾先生は向こうで男性だけではなく、女性とも会話をされたのでしょうけれど・・・。

保田:
 先生はわりとシャイですので、女性を非常に意識されます。けれども一方で、1962年の遠征への西岡京治副隊長夫人の参加に関して、若い隊員の反対を押し切ってうまく連れていく作戦を練られたのも先生です。先生は亡くなられる少し前にある雑誌のインタビューで「専門家はみんな自分の蛸壺を持っていて、それを下へ下へと降りたがり、他を見ようともしない。」というようなことをおっしゃっています。先生はあることをずっと見ようというよりも、むしろ総合化して見ようというご性格であったように思います。山に登るというと、未踏地へいち早く行って人がまだ手にしていない植物や昆虫を採りたい、そういうのが一般的な研究者ですよね。そこに何を研究するでもなく見聞的に歩きながらヒマラヤを見たいというだけの女性が入ってこられると隊が身軽でなくなってしまいますので、みな忌み嫌うわけです。ところが先生はもともと物事を総合的に見ようとされますので、そのようなことは気になさいません。また、そういうところにフェミニストとしての先生の側面を見たような気もします。

金子:
 中尾先生は照葉樹林文化論を支えてゆく根本的なものとしてエリア&エイジ仮説を挙げ、広い分布と長い年代を見て、総合的に判断して組み立てていくということをおっしゃっていますが、こういうことからも幅の広い考え方をなさっていたのがわかりますね。

保田:
 そうですね。照葉樹林帯というベルトを見ようとすると、どうしても気候が関係してきます。普通は気候というと気温や降雨量を別々に見ますよね。ところが先生は温度と湿度をうまく組み合わせるケッペンという人の論理を非常に支持されていて、気候ひとつをとっても温度と乾湿度のセットでというように、何を見るにしても単体で見るのではなくて何かとのセット論です。

金子:
 温度と乾湿度というと、ちょうどアリストテレスが最初にやった2つの因子の組み合わせがそうですね。冷と温・湿と乾は対極の4つの因子に分ける時の分類項目です。アリストテレスは古代における総合化の人だったと思うのですけれど、そういう人と似ているのは非常におもしろいですね。

保田:
 私もそう思います。金子先生の自然科学史論などを見るとアリストテレスが最初の頁に出ていますが、中尾先生がそういう本の最後に出てきたらおもしろいなあと思いますね。


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息遣いの聞こえるコレクション

金子:
 ここで中尾先生のパーソナルなところを伺いたいのですが、中尾先生の講義はおもしろかったですか。つまり、お話はおもしろかったのですか。

保田:
 話はおもしろかったのですが、先生の話のおもしろさは皮肉っぽいところにあります。必ず話のどこかに皮肉めいたポイントが隠されているのです。

金子:
 皮肉ということは、鋭い批評眼を持っているということですね。

保田:
 そうだと思います。私などは妥協的というか八方美人というか、人が何かを言うと「そうですね」と相槌を打ちます。けれども先生の場合、一応は聞いておられますが、「だがね、君」という言葉が必ずどんな人に対してでも入ってきます。後輩や学生に対してだけでなく、偉い先生に対してでもです。必ず批判の目を持ちながら、ある仮説を絶えずご自分の頭のなかで立てておられます。そして、仮説を立てるためには科学者は普通いろいろな本を見たり実験をしたりして立証していきますが、先生は採ってきた植物を実験圃場で掛け合わせたりするのはあまりお得意ではありませんでしたから、それは得意な人に任せておいて、出てきたデータをうまく利用しながら、後はフィールドでどのように変化してゆくのかというあたりをご自分の足で稼いでこられて仮説を立証されていました。

金子:
 ご自分の得手・不得手をよくご存じだったのですね。

保田:
 私はあれほど自分の得手・不得手、それから物事の要・不要を心得ている研究者をあまり他に知りません。ブータンの皇后がお忍びで京都へ来られた時、それを知られた先生は皇后のお孫さんにお土産をと、京都の百貨店のおもちゃ売場に這いつくばって、リモコン式の自動車の動かし方を説明して手渡された、というエピソードがあるのです。このことがきっかけで先生はブータンに行かれたんだ、と言う人もいます。ですから、自分がこうしようと思うと、なり振り構わず適切な手当を加えられるということです。

金子:
 最後にもう一つ伺いたいのですが、今度のコレクションには日記のようなものはないようですが、中尾先生は筆まめな方ですか。

保田:
 日記はないですが記録はすごいですね。ですから筆まめと言うべきだと思います。でも日常、用を仰せつかる時は、先生はせっかちですからすべて電話です。合理的と言えばよいのでしょうか、回りくどいことがお嫌いです。電話がかかってきて、こういうことが知りたいので頼むよと言われると、私は先生がせっかちなことをよく知っているので、すぐに調べてお電話します。でもいきなり答えられませんから、「先生、お元気ですか。」なんて言うと、「君、この年で元気なんてことないだろう。そういうつまらない社交辞令はやめて僕が頼んだことをさっさと言いたまえ。」と、こういう調子です。それから形式論もお嫌いで、お歳暮・お中元・手土産など、形式的なことは好まれません。自分が何かのためにするお土産は、先ほどのエピソードのように別ですが・・・。

金子:
 今日、中尾先生のお人柄や学問の特徴、フィールドワークの実際の場面などをいろいろと伺ったのですが、コレクションがセンターで一般に公開できるような形になった時に、照葉樹林文化論に関して、中尾先生の学問に即しながら、なおかつ展開してゆく研究も望まれると思います。どのような形で展開してゆくのが望ましいとお考えになりますか。

保田:
 情報化時代の今日、先生の書かれたものは何らかの方法で手に入りますから、照葉樹林文化論について調べたり、批判したり、それを発展させたりということはできるでしょう。しかしその基礎になったものは何なのかと、先生の哲学の心髄に迫ろうとすれば、その活字のみから推し量ることは難しく、やはり先生がこつこつとメモされ、集められた本学にある資料は、今後とても重要になってくるだろうと思います。ですからあのコレクションは、「人・中尾佐助」を研究するにはなくてはならないし、ひいては、照葉樹林文化論の心髄を探ろうとする場合、あのあたりを紐解くと何かまた違った展開ができるのではないかと私自身は思っています。

金子:
 私も自分自身の研究で、エルサレムの図書館に保存されているアインシュタインのマニュスクリプトや蔵書などをずいぶん調べたのですが、最も感激するのは、蔵書にアインシュタインが自分で書き込んだエクスクラメーションマークや短い感想などを見つけた時です。そういうものを見ていると、アインシュタインが読んでる時の息遣いがわかるのです。どんな科学者も基本的には人間で、人間の営為というのは感情の起伏のなかで行われています。そういったことも学問と無関係ではないと思います。ですからマニュスクリプト全体をトータルに見ていって、「人間・中尾佐助先生」が照葉樹林文化論というものを構築していった過程が追体験できるようになっていけば、後進の研究者にもいろいろないい刺激を与えることができるのではと思うのですが・・・。

保田:
 そうですね。とにかくここにある先生の手垢がついた資料は、金子先生がアインシュタインの話をされたのと同じように、今も息づいているような気がします。

金子:
 そういう意味で今後、いろいろな形で大学院の学生などに研究テーマとして取り上げていただけるとありがたいと思っています。

保田:
 私もそう思います。そして、中尾先生のような偉大な方が大阪府立大学で教鞭をとり、ある発想を練っていたということが、府立大学の歴史のなかに形として残されるのは、なかなかいいことではないかと思います。

金子:
 このコレクションを第1号として、今後いろいろと大阪府立大学の関係者の必要な基本的資料を保存していくという仕事も総合情報センターとして期待されていると思います。ぜひまたいろいろとご協力をお願いいたします。



*対談者プロフィール*

金子 務
 大阪府立大学総合情報センター所長、総合科学部教授(当時)
 専攻:科学思想史・科学社会学
保田淑郎
 大阪府立大学農学部教授(当時)
 専攻:昆虫学


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